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ヴィトゲンシュタインの転職歴7回に学ぶ、仕事と自己研鑽の名言

著者: metta 広告
ヴィトゲンシュタインの転職歴7回に学ぶ、仕事と自己研鑽の名言

ヴィトゲンシュタインは工学研究者、志願兵、小学校教師、修道院の庭師、建築家、ケンブリッジ大学教授、戦時下の病院助手と、生涯で7回ほど職を変えています。そのたびに肩書きは下がったり上がったりしましたが、本人はそれを転落とも出世とも見ていませんでした。ノートに残した「哲学の仕事は自分自身に対する作業だ」という言葉のとおり、どの仕事も自分の見方を直す場だったからです。転職を考えている人にとって参考になるのは、職歴の派手さより、彼が仕事を選ぶときに何を嫌い、何を守ったかです。名声を動機にしないこと、自分を偽らないこと。この2つの基準で転職を見直すと、判断はかなり単純になります。

転職回数が多いと不利になる、という話をよく聞きます。履歴書の職歴欄が長いと採用担当者が警戒する、というやつです。実際そういう会社はありますし、年代によって見られ方も変わります(年代別の転職判断基準で書きました)。

ただ、その基準で見ると、20世紀でいちばん有名な哲学者の一人はかなり分が悪い。

ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン(1889〜1951)は、航空工学の研究者から始まって、兵士、小学校教師、庭師、建築家、大学教授、病院の薬局助手と、職を7回ほど変えています。しかも財閥の家に生まれた遺産を全部きょうだいに譲ってしまったので、途中は本当に貧しかった。教師時代は農村で、庭師時代は工具小屋に寝泊まりしていたそうです。

この記事では、彼の職歴をひととおり追ったうえで、仕事と自己研鑽について彼が残した言葉を読み直します。結論を先に書くと、彼の転職には一貫した基準が1つだけあって、それは「この仕事で自分を偽らずにいられるか」でした。


ヴィトゲンシュタインの職歴

まず全体像です。年代と仕事、その時期に何があったかを並べます。

期間仕事場所何があったか
1908〜1911航空工学研究者マンチェスター大学高空用の凧の実験、プロペラエンジンの特許取得
1914〜1918志願兵・砲兵士官オーストリア=ハンガリー帝国軍最前線を志願、勲章授与、イタリア軍の捕虜に
1920〜1926小学校教師下オーストリアの農村正書法辞書を編纂、体罰事件で辞職
1920、1926庭師助手ウィーン郊外の修道院工具小屋に住み込み
1926〜1928建築家ウィーン、クンドマンガッセ姉の邸宅を設計
1929〜1947大学講師・教授ケンブリッジ大学1939年に教授就任、1947年に辞任
1941〜1944薬局助手・研究助手ガイズ病院、王立ヴィクトリア病院軟膏の調合、創傷ショック研究のデータ解析

肩書きだけ見ると、上がったり下がったりが激しい。大学教授になった後に病院で軟膏を練っているわけです。

航空工学から哲学へ(1908〜1911年)

最初の仕事は工学でした。ベルリンとマンチェスターで航空工学を学び、マンチェスターでは上空の気象を測るための凧を飛ばしたり、プロペラの先端に燃焼室をつけて燃料を噴射する「先端噴射式プロペラ」を考案して特許を取ったりしています。後のヘリコプターの仕組みを先取りしていた、と言われることもあるようです(British Wittgenstein Society「Wittgenstein’s Jet」に図面つきの解説があります)。

ところが、プロペラの設計で数学の基礎的な問題にぶつかり、そこから数学とは何かという方向に関心が流れていきました。数学者フレーゲに会いに行き、その勧めでケンブリッジのラッセルのもとへ移ります。1911年、22歳のときです。

工学から哲学への転向は、外から見れば専門を捨てたように見えます。でも本人の中では、プロペラの問題を突き詰めたら数学に行き着き、数学を突き詰めたら論理に行き着いた、という連続した話だったのだろうと思います。

志願兵としての4年間(1914〜1918年)

第一次世界大戦が始まると、兵役免除の権利があったのに志願して入隊しました。最初は後方の部隊だったのが、自分から最前線の観測兵を希望しています。砲撃にさらされる観測塔で任務を続け、勲章をいくつか受けたそうです。

この時期の手帳に『論理哲学論考』の草稿が書かれています。塹壕の中でです。1918年に捕虜になり、収容所にいる間に原稿を仕上げました。

なぜ危険な前線を自分から望んだのか。伝記を書いたレイ・モンクは、死の間近にいることで精神を集中させ、自分を試そうとしたのだと解釈しています(『ウィトゲンシュタイン 天才の責務』)。転職の話にそのまま当てはめるのは乱暴ですが、楽な配置より厳しい配置を選んだ、という点は覚えておいてください。後で出てきます。

小学校教師としての挫折(1920〜1926年)

『論考』を書き終えた彼は、哲学の問題は全部解決したと考えて学界を離れます。そして遺産を全部手放し、下オーストリアの貧しい農村で小学校の先生になりました。

教え方はかなり熱心だったようです。子どもに高度な数学や解剖学を教え、自分で正書法の辞書を作って出版までしています。

ただ、村の人たちとはうまくいきませんでした。完璧主義が強すぎて、保守的な農村の価値観と衝突し続けた。1926年、授業中に生徒を殴って気絶させてしまう事件(ハイドバウアー事件)が起き、辞職します。本人は激しい罪悪感を抱え、10年以上たってから村を訪ねて謝罪して回ったという話もあります。

これは明らかな失敗です。転職先で適応できず、取り返しのつかないことをして辞めた。美談にはなりません。

庭師として過ごした回復期(1920年、1926年)

教師を辞めた直後、彼はウィーン郊外のヒュッテルドルフにある修道院で庭師の助手として働きました。教師になる前の1920年にも、同じように庭仕事をした時期があります。

身分を伏せて、庭の工具小屋に寝泊まりし、木を剪定したり土を掘ったりしていた。修道士から入会を勧められたが断った、と伝わっています。

ここで何が起きたのかは記録が少なくて、本人がどう感じていたかは正直よく分かりません。ただ、この後すぐに建築の仕事に入り、そこから哲学に戻っているので、体を動かす単純な仕事が立て直しに効いた、という見方は妥当だろうと思います。

建築家としての2年間(1926〜1928年)

姉のマルガレーテから邸宅の設計を頼まれ、建築家パウル・エンゲルマンと組んで仕事を始めます。最初は補助的な役割だったのが、途中から設計の大半を自分で仕切るようになりました。

ドアの取っ手、鍵、窓枠、ラジエーターの形まで、全部自分で決めた。すでに施工が終わっていた部屋の天井を、数ミリ高くするために作り直させた逸話が残っています。装飾は一切なし。

この家(ハウス・ヴィトゲンシュタイン)は今もウィーンに残っていて、ブルガリア文化会館として使われているそうです。

そしてこの建築の経験が、後で紹介する「自分自身に対する作業」という言葉の直接の元になっています。

ケンブリッジ大学教授(1929〜1947年)

建築を終えて、1929年にケンブリッジへ戻りました。1939年にはムーアの後任として哲学教授になります。ここが世間的には職歴の頂点でしょう。

ところが本人は、大学と職業哲学者という仕事を嫌い続けました。ガウンを着て講壇で話すのを拒み、自分の部屋にデッキチェアを並べて、原稿なしで考えながら話す形式で授業をしています。

有望な学生には、哲学をやめて工場で働けとか、医者になれとか、繰り返し勧めていました。教え子のノーマン・マルコムは『ウィトゲンシュタイン 天才哲学者の思い出』の中で、自分が哲学の教職に就くことについて、ヴィトゲンシュタインが強く反対したと書いています。

1947年、教授職を辞任します。理由は執筆に集中するためでした。

病院での戦時奉仕(1941〜1944年)

第二次世界大戦中、教授の身分のまま、ロンドンのガイズ病院で薬局助手として無給で働いています。軟膏を調合したり、薬を病棟に運んだりする仕事です。

その後ニューカッスルの王立ヴィクトリア病院に移り、R・T・グラント博士の創傷ショック研究チームで技術助手をしました。自分が有名な哲学者であることは周りに隠していたそうですが、データの扱いが正確だったので研究者たちからは高く評価された、と伝わっています(King’s College London の人物紹介にこの時期の記録があります)。

ケンブリッジ教授が病院で軟膏を練る。世間の職業観からすれば理解しにくい選択ですが、彼の中ではこれも同じ基準で選んだ仕事でした。


仕事と自己研鑽についての言葉

ここからが本題です。職歴だけなら変わった人の伝記で終わりますが、彼はノートに仕事についての言葉をいくつも残していて、それを読むと転職の選び方が一貫していたことが分かります。

引用は主に『文化と価値』(Vermischte Bemerkungen、G・H・フォン・ウリクト編)からです。死後に編纂された、彼の雑記ノートを集めた本です。

「哲学の仕事は自分自身に対する作業だ」

建築の仕事を終えた1931年ごろ、ノートにこう書いています。

哲学における作業とは、建築における作業がしばしばそうであるように、実のところ自分自身に対する作業(Arbeit an einem selbst)である。自分自身の捉え方に対する作業。物事をどう見るかに対する作業。(そして自分に何を要求するかに対する作業。) (『文化と価値』1931年の項)

この言葉の意味を一文で言うと、哲学の仕事とは知識を増やすことではなく、自分の物事の見方と自分への要求を直すことだ、ということです。

天井を数ミリ上げさせた経験が、ここに直結しています。建物を直しているようで、実は自分の目を直していた。哲学も同じで、自分の見方の歪みや言葉の濁りを削る仕事だ、と言っている。

転職の話に引き寄せると、こうなります。仕事を「成果物を出す場」とだけ見ていると、成果が出ない職場は全部ハズレになる。でも「自分の見方を直す場」として見ると、評価はかなり変わります。彼にとっては庭仕事も軟膏の調合も、その意味では哲学と同じ作業でした。

自分はこの考え方を全面的に支持するわけではありません。給料が安すぎる職場に「自分を磨く場だから」と居続けるのは、ただの搾取です。ただ、転職先を選ぶときに「ここで自分の何が直るか」を一度考えてみる価値はあると思っています。

「野心は思考の死である」

野心は思考の死である。(Der Ehrgeiz ist der Tod des Denkens.) (『文化と価値』1947年の項)

名声や地位を動機にした瞬間に、思考が対象ではなく他人の評価のほうを向いてしまう、という意味の言葉です。短い言葉ですが、彼の転職歴を説明するのにいちばん効きます。

遺産を全部手放した。教授職を捨てて病院に行った。教え子には哲学者になるなと言った。どれも、名声や地位を動機にした瞬間に、自分の思考が他人の評価のほうを向いてしまう、と考えていたからです。

これは転職の場面でも起きます。年収と肩書きだけで転職先を選ぶと、入社した後に「自分は何をしたかったのか」が分からなくなる。年収を大きく上げて転職したのに、1年ほどで仕事の中身に興味が持てなくなった、という話は相談の場でよく聞きます。給料が低いなら転職すべきかという記事で数値の見方を書きましたが、数値だけで決めると後でここに引っかかります。野心で選ぶと、思考が止まる。ヴィトゲンシュタインが言っているのは、たぶんそういうことです。

「自分を偽らないことほど難しいことはない」

自分を偽らないことほど難しいことはない。 (『文化と価値』1938年の項)

自分に嘘をつかないことは、他人に嘘をつかないことよりずっと難しい、という意味です。サルトルが自己欺瞞と呼んだものに近く、転職しないことも選択であるという記事でその話を書きました。

彼が教師を辞めたとき、大学を辞めたとき、共通していたのは「このまま続けると自分に嘘をつくことになる」という判断でした。逆に、教授になった後に病院で働いたのは、戦時中に大学で哲学を講じていることが自分には嘘に思えたからだろう、と伝記作家たちは書いています。

転職を考えるとき、まず条件を比べる人が多いです。年収、勤務地、残業時間。それ自体は正しい。でも条件を全部並べても決まらないときは、たいてい「今の職場で自分を偽っているか」が本当の問いになっています。上司に合わせて自分の意見を言わなくなっている。やりたくない案件を「勉強になるから」と自分に言い聞かせている。そういう状態を、彼は最も難しい問題だと言った。

「プロの哲学者になるくらいなら工場で働け」

職業として哲学をやると自分を偽りやすいから、結果が目に見える仕事のほうがましだ、という意味の忠告です。著作の言葉ではなく、講義や会話で繰り返し学生に言っていたことです。マルコムの回想録や、モンクの伝記に複数の証言が出てきます。

学者の議論は現実から切り離されて言葉が空回りしやすく、しかも本人の自尊心や地位への執着で簡単に歪む。それに対して、機械の修理や建築や薬の調合は、物理的な結果と向き合わざるを得ないので誤魔化しがきかない。彼はそう考えていたようです。

これは大学教授本人が言っているのだから、かなり皮肉が効いています。自分の職業を全否定している。

ただ、ここも鵜呑みにはできません。手仕事なら誠実でいられる、というのは彼の理想化が入っていると思います。工場にも政治はあるし、庭師にも見栄はある。彼が農村の教師として失敗したのは、まさに現場の人間関係だったわけですから。


転職判断に使える基準

彼の職歴と言葉から、転職を考えるときに使える基準を2つだけ取り出します。3つにしなかったのは、3つ目が思いつかなかったからです。

1つ目。この転職の動機は、野心か、それとも自分の見方を直したいからか。

年収と肩書きが動機の中心なら、入社後に思考が止まる可能性を一度考えてみてください。それでも行く、という判断は普通にあります。生活がかかっているならなおさらです。ただ、動機を自覚しておくかどうかで、入社後の消耗の仕方が変わります。

2つ目。今の職場に残ることで、自分を偽ることになるか。

なるなら、条件が多少悪くても動いたほうがいい。ならないなら、条件だけで動くのは急がなくていい。

ヴィトゲンシュタインの職歴は、この2つだけで全部説明がつきます。工学から哲学に移ったのは見方を直すため。教師を辞めたのは、続けると自分を偽ることになるから。教授を辞めたのも同じ。病院に行ったのは、大学にいることが嘘に思えたから。


職歴の長さで人を測らない

冒頭の話に戻ります。転職回数が多いと不利になる。

ヴィトゲンシュタインの職歴を採用担当者が見たら、たぶん書類で落とします。専門がばらばらで、前職を問題を起こして辞めていて、教授職を自分から捨てている。

でも彼が残した哲学は、この職歴がなければ書けなかったものです。塹壕で『論考』を書き、農村の教室で日常言語の働きに気づき、建築で自分の目を直し、そこから『哲学探究』に向かった。

転職回数そのものは、良いことでも悪いことでもありません。1つの仕事に40年いる人にも、7回変わった人にも、それぞれ理由があります。問われるのは、そのたびに自分を偽らずに選んだかどうか。彼の言葉を借りれば、それが自分自身に対する作業をやり続けたかどうか、ということになります。


参考文献

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転職支援・キャリア相談の実務経験を持つ編集者。哲学・東洋思想を実生活に活かす観点から記事を執筆。

本記事は哲学・思想の視点から考え方を整理することを目的としており、個別の転職判断に関する専門的アドバイスの代替にはなりません。 具体的なキャリアの意思決定にあたっては、国家資格キャリアコンサルタント等の専門家への相談もあわせてご検討ください。

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